被災地から学ぶ 私たちの防災
東日本大震災から10年が経過したこの夏、県内の高校生26人が被災地の岩手県を訪れ、防災のあり方について学んだ。静岡県ボランティア協会が東北と静岡のつながりを強くする「TOMOSHIBIプロジェクト」の一環で企画した東北スタディツアーに参加。8月5日〜8日の日程で大槌町、釜石市、陸前高田市、大船渡市を巡り、語り部から体験談を聞くなどしてあの日の出来事と被災地の今を肌で感じ取った。
静岡新聞SBSの防災・減災プロジェクトチーム「TeamBuddy」は、新たな防災の担い手へと成長する高校生たちの姿を追った。
[企画・制作:静岡新聞社・静岡放送 TeamBuddyプロジェクト/ツアー主催:特定非営利活動法人静岡県ボランティア協会]
- ツアー参加者
- 静岡雙葉高等学校 佐野菜帆(1年)/日本大学付属三島高等学校 里中希成(1年)/静岡サレジオ高等学校 荻野こころ(1年)、柿澤佑香(1年)、北原莉央(1年)、佐野メリア(1年)/駿河総合高等学校 田嶋結衣(1年)、小田巻芽生(2年)、多々良帆南(2年)、望月凰花(2年)、望月すみれ(2年)/静岡城北高等学校 山本遥香(1年)、柏木亜美(2年)、佐原千椿(2年)、小島璃空(3年)、山本徹汰(3年)/掛川工業高等学校 田中 椋(3年)/静岡中央高等学校 永井来人(3年)/湖西高等学校 伊奈玄清(3年)、佐藤駿樹(3年)/静岡市立高等学校 高野日菜(2年)/伊豆中央高等学校 片岡柚乃(2年)、成瀬未理(2年)/浜松北高等学校 鈴木あゆの(2年)/科学技術高等学校 原 千智(2年)/藤枝東高等学校 小池里和(1年) (順不同)
城山公園
大槌町の中心部にある丘の中腹に位置し、震災時に災害対策本部の代替設置場所や避難所となった中央公民館や体育館など市民サービス施設が整備されている。見晴らしがよく、防潮堤や水門など、津波対策設備を一望することができる。ふもとには大槌小跡地に建て替えられた町役場がある。
8月6日午前8時前。生徒たちは最初の訪問地・岩手県大槌町の城山公園に到着した。町の中心部に位置し、体育館や公民館が備わる小高い丘の上。震災後に整備された高さ14.5メートルの防潮堤と巨大な水門を見渡せ、眼下には空き地が目立つ造成地が広がる。
案内役を務めたのは震災当時、避難所運営などに奔走し、後に町議となった東梅 守さん(62)。大津波と火災に襲われたときの状況や町民の意識、生活再建の歩みなどを事細かに説明した。
生徒たちは阪神大震災の被災地から分灯された「希望の灯(あか)り」の前で東日本大震災の被災者と、7月に熱海市で発生した土石流で命を落とした方々に黙祷を捧げた。
大震災の教訓から「静岡へ戻ったら、自分が住む場所に潜む危険をハザードマップで確認してほしい」と力を込めた東梅さんの言葉に、静岡城北高3年の山本徹汰さんは「ここで学んだことを家族に話し、一緒に避難の方法を確認したい」と意を強くした。
大槌町役場
数十人の職員が命を落とした大槌町役場。津波で庁舎2階までが沈み、数人の職員が屋上で助けを待つ映像を覚えている人は少なくない。震災から10年たった今年7月、同町は「日本中のどの市町村であっても、大槌町のような悲しい出来事が二度と起こらないように願う」として記録と教訓を後世に語り継ぐことを目的に大槌町東日本大震災津波犠牲職員状況調査報告書を刊行した。
「正直、自分が生きていることに後ろめたさがある」。大槌町役場に生徒たちを迎え入れた平野公三町長(65)はこう胸の内を明かした。震災当時は町職員。庁舎は津波に飲み込まれた。目の前で何人もの同僚が流されていった。「ただ見守るしかできなかった…」。時折言葉をつまらせながら、10年前の悲しい出来事を振り返った。
遺体の多くは波に混じった瓦礫などで傷つき、激しく損傷する―。巨大津波の恐ろしさを生々しく伝えた。「心のケアを含め、まだ復興は終わってない」とした上で、こう訴えた。「自分と家族の命を守ってください。そのために何をすればいいのか日々考えるようにしてほしい。想定外になってはいけない」
現実を赤裸々に語った話は生徒たちに深く刺さった。浜松北高2年の鈴木あゆのさんは「つらい中で支えになったことは」と尋ね、駿河総合高2年の小田巻芽生さんは「中学生、高校生は何をしたら一番力になれるか」と質問した。科学技術高2年の原 千智さんは「自分ごととして防災と向き合っていかないと後悔する」と教訓を胸に刻んだ。
大槌町文化交流センター
おしゃっち〜赤浜地区
ホールや図書館を備えた複合施設。震災伝承の映像も視聴可能で、地区の復興や防災について学ぶことができる。また、震災前の地区を再生したジオラマがあり、地元の人は自分の家や町内を眺め、昔を懐かしむという。
大槌町文化交流センター「おしゃっち」では、町の地形が分かるジオラマを見ながら、語り部として活動する一般社団法人おらが大槌夢広場の岩間敬子理事(58)の体験談に耳を傾けた。館内の震災伝承展示室を見た後、隣接する町役場庁舎跡地や、倒壊した灯台が再建された蓬莱島がある赤浜地区にも足を運んだ。
道中は、防潮堤と同じ高さ14.5メートルに達する坂道をバスで上った。伊豆中央高2年の片岡柚乃さんは「車内から5階建てほどのマンションの屋上が見えて怖かった」と押し寄せた津波の大きさを実感。「伊豆はこの場所と地形が似ている。自分が住む地域の特徴を考えて避難しなければ」と語った。
三陸は昔からたびたび津波被害に遭っていたが、震災後に「ここまで到達するとは思わなかった」という声もよく聞かれたという。土地の造成に伴う法的な問題や住民の葛藤など復興を進める上での課題も指摘した岩間さんは「過去に被害が起きてないから大丈夫という思い込みは捨ててほしい」と命を守る方法を伝え、最後に落ち合う避難場所を家族の間で決めるよう宿題を出した。
釜石鵜住居復興スタジアム
海に近い立地にも関わらず的確な判断で児童生徒570人が生き延びた「釜石の奇跡(出来事とも)」。被害を受けた釜石市立鵜住居小学校、同市立釜石東中学校跡地に建設されたスタジアム。2019年にはラグビーW杯の会場にもなった。災害時には緊急避難場所としても使われる。
現地での2日目の行程は「釜石の奇跡」で知られる釜石東中、鵜住居小の跡地に整備された釜石鵜住居復興スタジアムからスタートした。当日は気温30度を超す炎天下。生徒たちはタオルで汗を拭いながら、発災時に釜石東中3年だった菊池のどかさん(26)の案内で、児童・生徒が手を携えて懸命に逃げた避難ルートをたどった。
当時の子どもたちはまず、学校から約800メートル離れた海抜4メートルのグループホームに避難。余震で裏山の崖が崩れ始めているのを見ると、地域の人の助けも借りながら約300メートル先のより高台にある介護福祉施設を目指した。菊池さんによると、「振り返ると黒い波がものすごい勢いで迫ってくるのが見えた」という。そこでさらに急坂を約500メートル全力で駆け上がり、開通したばかりの三陸沿岸道がある峠で難を逃れた。
「最後に残った感情は死にたくないだった」。菊池さんは避難時の心境を率直に伝えた。湖西高3年の伊奈玄清さんは「パニックや恐怖もある中で、正確な判断を下す大切さを学んだ。自分たちもどうやったら助かるかしっかり考えたい」と避難路に目を向けた。
東日本大震災津波伝承館
いわてTSUNAMIメモリアル
「命を守り、海と大地と共に生きる」を展示のテーマに、三陸の津波災害の歴史、東日本大震災津波や復興の取り組みに関わる写真と映像、被災物などを展示。周りには復興祈念公園を整備し「奇跡の一本松」や「陸前高田ユースホステル」「旧 道の駅高田松原」などが伝承施設として残されている。
陸前高田市の海岸沿いに整備された東日本大震災津波伝承館「いわてTSUNAMIメモリアル」では、巨大津波に襲われる岩手県内各地の映像や、被災した消防車両、看板、標識、鍵盤ハーモニカの実物などを見て自然の猛威を改めて体感した。
2班に分かれて解説員の説明を聞きながら、三陸地方で繰り返されてきた津波の歴史、東日本大震災発災直後からの国や行政の動き、救助活動の様子などを時系列でまとめた記録なども見て回った。生徒たちは館内で配布された「震災津波伝承ノート」に、見学を通じて得た学びのポイントや自分なりの考えを熱心に書き込んだ。
駿河総合高2年の望月すみれさんと多々良帆南さんは「消防車の壊れ方は衝撃的だった。津波の怖さがすごく伝わってきた」「町によって被害の大きさが違うのも驚いた」などと話した。
奇跡の一本松
陸前高田市の海岸沿いでは津波で約7万本あった松の木のほとんどがなぎ倒されて壊滅したが、松原の西端近くに立っていた1本が残ったことから、「奇跡の一本松」などと呼ばれるようになった。結局、松は枯れてしまったが復興のシンボルとして保存加工された。
いわてTSUNAMIメモリアルが建つ高田松原津波復興祈念公園内には、5つの震災伝承施設が残されている。生徒らは再建された高さ12.5メートルの防潮堤に上って海岸線を眺め、津波が押し寄せた状況を頭に思い描きながら園内を散策した。
復興のシンボルのモニュメントとして保存されている「奇跡の一本松」や、地盤がえぐられて建物が崩れ落ちた「陸前高田ユースホステル」の前では、学習の資料にしようとスマートフォンで写真を撮影した。復興事業のために周辺を行き来する工事車両にも目を留めた。
震災から10年たっても、ツアーで巡った被災地はどこも傷が癒えたと言える状況からはまだ遠い。ハード面の整備は進んでもソフト面での課題はある。生徒たちからは「まだ復興の途中だと思った」との声も聞かれた。駿河総合高2年の望月凰花さんは「東北に来る前と来た後では感じ方が全く違う。学校での避難訓練ももっとしっかりしないといけない」と言葉に力を込めた。
寄り添うー地元記者の目線
岩手日報 川端章子 記者
今回の東北スタディツアーでは学習成果を壁新聞にまとめて伝承する活動にも取り組む。生徒たちは事前研修で静岡新聞社の編集局員から取材のポイントを聞き、現地では地元紙・岩手日報の川端章子記者(39)から震災を「伝える側」の視点も学んだ。
生徒たちのバスに乗り込んだ川端さんは、地元紙としての使命について語った。岩手日報は震災時、「災害時に必要とされるのは安否情報だ」との考えから、避難所の張り紙の情報を集めて避難者名簿を連日掲載し続けた。文字が読み取れずに氏名の一部を黒丸にしたまま載せたこともあった。不完全な情報に賛否はあったが、「誰がどこで生きているのかということを優先した」という。
現在は釜石支局長として復興の歩みを追い続ける川端さんは、「地域の新聞社は何を伝えるべきか。何が被災者のためになるのかを考え続けてきた10年間だった」と振り返った。避難生活中に亡くなった被災者もいたことも伝え、「避難生活に必要な視点は何かを自分なりに考えてほしい」と呼びかけた。