防災コラム

つたえる

つたえる

災害を「自分事」に、語り部が繰り返す命のメッセージ

Profile

大震災かまいしの伝承者

高橋奈那さん(2024年現在静岡大4年)

小学校3年生のときに釜石市で被災し、現在は語り部として自分の体験を伝えている、静岡大学4年の高橋奈那さんに13年前の体験などを聞きました。


   ※2024年3月12日(火)午前11時34分〜SBSラジオ「鉄崎幹人のWASABI」Team Buddyのコーナーにて放送しました。

語り部として活動する高橋さん

語り部として活動する高橋さん

止まらない揺れに友は泣き叫びだした

 東日本大震災発生の瞬間は教室で帰りの会の最中でした。突然襲った大きな揺れ。先生の「机の下に!」という指示で身を隠したのですが、あまりの大きな揺れで、小学生には左右に動く机を抑えることができませんでした。大きな音とともに、揺れがあまりにも長く続くので泣き叫び始める友達もいました。
 揺れが小さくなると、校庭に避難しました。しばらくすると、友達のお父さんやお母さんが慌てた様子で迎えに集まり始めました。でもその間も余震は続き、揺れるたびに不安になったのを覚えています。友達の迎えが次々と来る中、私の親はなかなか現れませんでした。ようやく母親が私を迎えに来てくれて、二人の兄と、祖母と合流しました。しかし、父親の姿はありませんでした。

父との再会は発災から2週間後

 震災当日は家の中がぐちゃぐちゃだったので、車の中で寝ました。次の日からは自宅に戻り、片付けながら生活を始めました。こうした間も父親と連絡を取ろうと、思いつく連絡先に電話をしたり、安否確認できる場所に毎日通ったりして、父の行方を必死に探しましたが、一向に消息がつかめず、不安が募る日々が続きました。
 結局、父親と再会できたのは2週間後でした。単身赴任で自宅から離れた学校に勤務していた父は発災後、学校の避難所運営をしていたため、学校を離れることができなかったのです。電話も通じず、道路も寸断されていたので連絡もできなかったということで、久しぶりに会えたときは心の底から安堵したのを覚えています。

日頃から家族と災害について考えて

先日、3・11のときに釜石市を支援してくれた大学の先生が石川県珠洲市で開いたワークショップに震災経験者として参加しました。参加した被災者の皆さんはまだ心の整理がついていない様子でした。参加者の方に「自分たちにはゴールが見えない。どこまで頑張れば復興した、この地域は大丈夫だと思えるようになるのか」と質問されました。私は、この答えを持っていませんでした。やはり復興支援は細くても長く続けることが必要だと感じました。
 地震、津波、台風などさまざまな災害に見舞われる中で、いかに災害を「自分事」として捉えられるかが大切だと思います。家族との日々の会話の中で「大きな災害が起きたらこういうふうに行動しよう」と話しておくことから防災は始まると思います。

ラジオに出演した高橋さん(中央)

ラジオに出演した高橋さん(中央)

珠洲市でのワークショップの様子

珠洲市でのワークショップの様子